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勝生勇利の「どこにでもいる日本のフィギュアスケーター」という台詞について考察してみた


勝生勇利が1話と12話で口にする「僕の名前は勝生勇利。どこにでもいる日本のフィギュアスケーター」という台詞について、考察してみた。

 

この台詞については賛否両論あり「特別強化選手なのにどこにでもいるとか」というツッコミが初見でほぼ必ず入るのだが、色々唐津にも行き考えてみた結果、下記の3点の理由によりこの台詞があるのだと思うためこの台詞を不思議に思った方は是非読んでみて欲しい。

 

 

1.長谷津という街から見る勝生勇利
唐津に実際に行ってみると唐津はアニメで描かれている以上に田舎町で、そんな中で特別扱いでなんかすげー奴扱いされていて、かつ友達も作りに行けない性格だと、自分の悩みや価値観を共有できる仲間が少ない環境で育つことになる。また、自分が周囲から孤立し自分が異端として育つことは、何よりの孤独であるとおもう。周囲の価値観から孤立してしまい、そこで出てくるのが自己肯定としての「どこにでもいる日本のフィギュアスケーター

 

2.弱い人間としての勝生勇利
デトロイトで女の子を突き飛ばすまで自分の弱さを肯定できず、周りが「弱い人間として見てなかった」中で自分の才能を伸ばしていった勝生勇利。弱い人間としての居場所を確保できず(勿論そうあったことは4話以降で彼が感謝する話ではあるのだが、地元に抱えていた微妙な気持ちというのは無理な天才扱い,孤独感から来ているように思う。そのため、5年も地元に顔を出せない)

前述した天才扱いから自分もどこにでもいる悩みを抱えた一個人なんだと主張する機会に恵まれず、そこで出てくるのが孤独感を否定するための「どこにでもいる日本のフィギュアスケーター

 

3.ヴィクトルと出会ってからの勝生勇利
12話の「どこにでもいる日本のフィギュアスケーター」という台詞について、ヴィクトルと出会ったがことにより喜怒哀楽や同じフィーリングを共有するソウルメイトに出会えた勝生勇利。そこで出てくるのが今までの孤独な人間から生身の人間としての居場所を得たがための「どこにでもいる」であって、また上には上がある、そのどこにでもいる生身の人間が神様(ヴィクトル)を越えてやろうというのが12話の「どこにでもいる日本のフィギュアスケーター

 

以上の3点の理由から「どこにでもいる日本のフィギュアスケーター」という台詞イコール「特別強化選手がどこにでもいる」ではなく、彼自身の内面から出てくる台詞だと解釈する。

 

彼自身が勝てるスキルがあるのに自分に自信が持てなかったのも、自分の価値観と周囲と価値観が剥離して育ち、自己完結しがちな自己評価のため、自分の実力を信じられなかったのだと感じた。そこに価値観を同一としスケートでずっと追いかけてきたヴィクトルがやってきたことで、やっと自己評価と周囲の評価のバランスが取れるようになったと考えられる。

 

 

以上、勝生勇利の「どこにでもいる日本のフィギュアスケーター」という台詞についての考察です。